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兄の精神は、雲一つない真夏の午後、完全に壊れてしまった。幽霊に憑かれたわけでも、殺人鬼に襲われたわけでもない。ただ、遠くの田んぼで奇妙にうねる『白い何か』を、双眼鏡で覗き込んだだけだ。もしあなたが夏の日にそれを見つけても、絶対に理解しようとしてはいけない。私は、あなたに兄と同じ過ちを犯してほしくないからこそ、この話をしている。
それは10年以上前、秋田の祖父母の家へ帰省していた夏休みのことだった。東京のコンクリートジャングルしか知らない私たち兄弟にとって、そこは別世界だった。見渡す限り続く青々とした田んぼ、うだるような湿気、そして鼓膜を破らんばかりに鳴き続けるセミの轟音。すべてがのどかで、そして退屈だった。
好奇心旺盛な兄は、ミリタリーショップで買ったという重たい双眼鏡を持参していた。野鳥でも観察するつもりだったのだろう。その日の午後、私たちは古い日本屋屋の縁側に腰掛け、冷えたスイカを食べながら、容赦なく照りつける太陽から逃れるようにして時間を潰していた。
最初に『それ』に気づいたのは兄だった。兄はスイカを持ったまま目を細め、遠くの田んぼの先を指さした。
「おい、あれ何だ?」
兄の視線の先を追う。はるか遠く、おそらく1キロは離れた田んぼのど真ん中に、ぽつんと真っ白な人影のようなものが見えた。最初は、白いシャツを着た農家の人か、使い古された布で作られた案山子だと思った。しかし、じっと見つめているうちに、胃の奥がじわじわと冷たくなるのを感じた。それが『動いて』いたからだ。
風で揺れているわけではない。その日は無風で、空気はどんよりと停滞していた。それなのに、その白い影は激しく体をくねらせ、左右にうねるように踊り続けていた。骨のない軟体動物か、強風に煽られたリボンのように、滑らかで不気味な動きだった。
「案山子……かな?」私は少し震える声で言った。
「案山子があんな動きするわけないだろ」兄はスイカを置き、傍らにあった双眼鏡に手を伸ばした。
その瞬間、私の中に言葉にできない強烈な危機感が走った。家の中に入って戸を閉め、何も見なかったことにしなければならない。本能がそう叫んでいた。「お兄ちゃん、やめなよ。気味悪いから放っておこう」
しかし兄は私の制止を聞かなかった。「ちょっと正体を確かめるだけだよ。どうせ風でビニールが引っかかってるだけだろ」
兄は双眼鏡を両目に当て、ピントを合わせるダイヤルを回した。私は兄の横顔をじっと見つめていた。数秒間、兄は微動だにしなかった。セミの鳴き声だけが、やけに大きく響いていた。
そして、その瞬間は訪れた。兄の顔から一瞬にして血の気が引き、遠くでうねるあの白い物体と同じくらい真っ白になった。顎が少し開き、両目はこれ以上ないほど見開かれ、純粋な恐怖に染まっていた。悲鳴はなかった。ただ、兄の腕から力が抜け落ちた。
重い双眼鏡が縁側に落下し、鈍い音を立ててレンズが砕け散った。兄はそのまま後ろに倒れ込み、庭の芝生の上に転がった。
「お兄ちゃん! どうしたの? 何が見えたの!?」
慌てて駆け寄る私を無視して、兄は空を見上げていた。その瞳からは理性の光が完全に消え失せていた。そして、兄は笑い始めた。目は全く笑っていないのに、口元だけが不自然に吊り上がっていた。ふふっ、という小さな笑い声は、やがて「ゲラゲラゲラ!」という甲高い狂気の笑いへと変わっていった。兄は涙を流しながら芝生の上を転げ回り、あの遠くの白い影と全く同じように、手足を奇妙にくねらせて踊り狂い始めたのだ。
騒ぎを聞きつけて飛び出してきた祖父は、狂ったように笑い転げる兄と、砕けた双眼鏡を見て、すべてを悟ったような顔をした。祖父は決して田んぼの方を見ようとせず、私の肩を掴むと、祖母に戸締まりを叫びながら家の中へ引きずり込んだ。
兄が正気に戻ることは二度となかった。医師は「熱中症による急性統合失調症」だと診断したが、祖父と私は本当の理由を知っている。兄は今も精神科の閉鎖病棟の中で、自分にしかわからない何かを見つめながら、体をくねらせて笑い続けている。
私はあの時、双眼鏡を覗かなかった。だから、あの白い影の正体が何だったのか、今でも全くわからない。そして、わからないからこそ、私はこうして正気を保ったままあなたに警告することができている。クネクネの本当の恐ろしさは、その姿ではない。その『正体を知ること』自体が、人間の脳を破壊する猛毒なのだ。この世には、永遠に理解してはならない謎が存在する。