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海が血のように赤く染まるのを見たことがあるだろうか?北海道の内浦湾で、夕暮れでもないのに空と海が突如として鮮血色に染まるとき、それは美しい自然現象などではない。深海から目覚めた巨大な神、アッコロカムイが浮上してきた合図なのだ。もし波が赤く光り出したら、振り返らずに逃げろ。さもなければ、あなたは暗い海の底へ飲み込まれる。
それは、厳しい冬の足音が近づく晩秋のことだった。普段であれば冷たい強風が吹き荒れ、白波が立つ内浦湾が、その日に限って気味が悪いほどに凪いでいた。海面はまるで巨大な黒い鏡のように静まり返っている。ベテランの老漁師である源三と、彼の孫である若き漁師の太一は、夜明け前から小さな木造船で沖合に出ていた。その日の網には、恐ろしいほどの魚がかかっていた。カレイや巨大なアイナメが、まるで自ら網へ飛び込んでくるかのようだった。大漁に喜ぶ太一とは対照的に、源三の顔は険しかった。長年海で生きてきた彼の肌が、目に見えない異変を感じ取っていたのだ。頭上には海鳥一羽飛んでおらず、潮の香りの代わりに、生臭い鉄の錆のような匂いが立ち込めている。「太一、網を上げろ。もう帰るぞ」源三は海面を睨みつけながら低く唸った。「海が息を止めておる。ひどく嫌な予感がする」
「あと少しですよ、じいちゃん。この分なら冬を越す金がたっぷり稼げる」太一は笑いながら重い網を引っ張り上げた。だが、その網を引き寄せる手が急に止まった。暗かった海面の下から、ぼんやりとした奇妙な光が漏れ出していたのだ。最初は微かな薄紅色だった光は、心臓の鼓動のような脈打ちと共に、みるみるうちにどぎつい鮮血色へと変わっていく。黒い鏡のようだった海面が、ぐつぐつと煮えたぎる血の池のように変貌し始めた。強烈な血生臭さが鼻をつく。太一がふと見上げると、朝の光を弾き返すように、空全体が恐ろしい真紅に染め上げられていた。「網を切れ!!」源三が喉が裂けるような悲鳴を上げた。「早く切れ!!カムイがお目覚めだ!!」
太一が小刀に手を伸ばすよりも早く、海が「爆発」した。水しぶきなどという生易しいものではない。まるで海底の山脈が急激に隆起したかのような轟音と共に、一面の血の海から、ぬめりを帯びた巨大な真紅の肉塊が突き出してきたのだ。巻き起こった高波が小さな木造船を激しく揺らす。太一は腰を抜かし、船底にへたり込んだ。それは蛸だった。しかし、その大きさは人間の想像を絶していた。古い大木よりも太い無数の触手がうねり、岩肌のような巨大な吸盤が空中で不気味な音を立てて開閉している。そして、肉塊の表面から、人間の家ほどもある巨大な黄色い眼球が現れた。その冷酷な瞳が、真っ直ぐに太一たちを捉えた。耳をつんざくような低い振動音が響き渡る。アッコロカムイは彼らを喰らうべく、空を覆い隠すほど巨大な一本の触手を高く振り上げた。真紅の空を遮るその巨大な影が、船に向かって一気に振り下ろされようとしていた。
絶望の淵で、源三は震える手で船底に転がっていた錆びた草刈り鎌を掴み取った。そして、最後の力を振り絞り、うねる赤い肉塊に向かって渾身の力で鎌を投げつけた。鋭い刃が巨大な触手の皮膚に深く突き刺さる。金属の刃に対する恐怖の記憶が刻まれていたのか、アッコロカムイは突如として激しく悶え、その巨大な動きを止めた。次の瞬間、怪物の体から漆黒の毒液が爆発的に噴射され、真紅の海は一瞬にして絶対的な暗黒に包まれた。怪物が深海へと逃げ帰る際に生じた巨大な波に押し流され、小船は木の葉のように吹き飛ばされた。数時間後、真っ黒なヘドロを吐き出しながら、二人は奇跡的に浜辺へと打ち上げられた。命は助かったが、太一が再び海へ出ることは二度となかった。彼にとって、海はもはやただの水たまりではない。あの薄っぺらい水面のすぐ下には、空を血に染める巨大な絶望が、いつでもこちらを引きずり込もうと口を開けて待っているのだから。