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街灯一つない真っ暗な夜道。聞こえるのは自分の足音だけのはずだった。しかし、背後からピタリとついてくる別の音が響く。べとっ、べとっ。振り返ってもそこには誰もいない。立ち止まれば、その音も止まる。もしあなたがこの奇妙な気配に気づいてしまったら、一体どうやって逃げ切るだろうか?
時は江戸時代。秋も深まり、夜風が肌を刺すような冷たさを持っていた頃の話である。行商人の藤吉(とうきち)は、奈良の宇陀(うだ)地方にある険しい峠道を急ぎ足で歩いていた。予定よりも商売が長引き、村へ帰る前に完全に日が落ちてしまったのだ。
空には月もなく、分厚い雲が星明かりさえも遮っていた。藤吉の頼りは、手に持った古ぼけた提灯の頼りない灯りだけである。足元をかろうじて照らすその光の外は、まるで墨汁をこぼしたような漆黒の闇だった。背中に背負った荷物の重さが肩に食い込むが、藤吉はとにかく早く暖かい家へ帰りたかった。周囲の森からは虫の音すら聞こえず、ただ藤吉の草履が砂利を踏む「ザクッ、ザクッ」という音だけが、不自然なほど大きく響き渡っていた。
峠の最も険しい勾配に差し掛かった時のことである。不意に、背後の空気がじっとりと重くなったような気がした。そして、自分の足音に混ざって、別の音が聞こえ始めたのだ。
『べとっ……べとっ……』
藤吉は足を止めた。泥道を重い下駄で歩くような、奇妙に粘り気のある音だった。しかし、ここ数日雨は降っておらず、道は完全に乾いているはずだ。藤吉は恐る恐る振り返り、提灯の灯りを高く掲げた。しかし、光の届く範囲には木々の影が揺れているだけで、生き物の姿は全く見えなかった。「気のせいか……」と自分に言い聞かせ、藤吉は再び歩き始めた。
『べとっ、べとっ、べとっ』
気のせいではなかった。自分が一歩踏み出すたびに、背後から確実についてくる。藤吉が歩くペースを上げると、背後の音も小走りになる。不気味に思い、極端に歩く速度を落としてみると、音もゆっくりになった。何者かが、暗闇の中で自分と全く同じ動きをしながら、数歩後ろをピタリとついてきているのだ。
心臓が早鐘のように打ち始めた。藤吉の全身から冷たい汗が噴き出す。「山賊か? いや、山賊ならとっくに襲いかかってきているはずだ。なら、あれは一体……?」
恐怖に耐えきれなくなった藤吉は、荷物を背負ったまま、なりふり構わず夜道を走り出した。提灯が激しく揺れ、周囲の景色が狂ったように踊る。
『べとべとべとべとっ!』
見えない追跡者は、恐ろしいスピードで真後ろに迫ってきた。首筋に冷たい息がかかるのではないか、今にも鋭い爪が肩に食い込むのではないか。極限のパニック状態に陥った藤吉は、叫び声を上げながら振り返り、提灯を力任せに前に突き出した。
しかし、そこにはやはり「完全な虚無」しかなかった。何もいない。足跡すらない。ただ音だけがそこに存在しているのだ。姿が見えないという圧倒的な恐怖が、藤吉の精神をギリギリまで削り取っていく。
その時、藤吉の脳裏に、幼い頃に祖母から聞かされた古い言い伝えが閃いた。「夜道で足音についてこられたらな、決して逃げちゃいけねえ。そいつはただ、お前の後ろをつっかえてるだけなんだから」
藤吉は震える足を無理やり止め、荒い息を整えた。すると当然、背後の足音もピタリと止まる。藤吉は道の真ん中から一歩横にズレて、道端の大きな杉の木に背中を預けた。そして、誰もいない真っ暗な空間に向かって、震える声でこう言った。
「べとべとさん……お先へどうぞ」
数秒の沈黙があった。次の瞬間、藤吉のすぐ目の前を『べとっ……べとっ……』という足音が通り過ぎていった。姿は見えないが、確かに何者かが目の前を歩いていく気配がした。足音は一定のリズムで峠の先へと向かい、やがて夜の闇の奥深くへと完全に消えていった。
張り詰めていた空気がふっと緩み、元の静かな秋の夜に戻った。藤吉はへたり込みそうになるのをこらえ、大きく息を吐き出した。恐ろしい怪異のはずなのに、礼儀正しく道を譲れば素直に去っていく。なんとも不思議で、どこか憎めない存在だ。藤吉は小さく笑うと、再び村への道を歩き始めた。この不可解な夜の出来事が、彼にとって生涯忘れられない奇妙な思い出となったことは言うまでもない。