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風は吹いていなかった。いや、突然、不自然なほどピタリと止んだのだ。旅の商人である喜助(きすけ)が足を止めた瞬間、背後の雪原から「ヒュルルルルッ」という甲高い音が響き始めた。振り返ると、真っ白な雪煙を巻き上げた激しいつむじ風が、まるで意志を持った獣のように、恐るべきスピードでこちらへ向かって突進してくるのが見えた。
江戸時代の半ば。信濃国(現在の長野県)の険しい峠道は、一面の深い雪に覆われていた。空はどんよりとした鉛色に沈み、吐く息は一瞬で白く凍りつく。隣の村へ商品を届けるため、喜助は無理を承知でこの峠を越えようとしていた。
「こんな日に山に入るなんて、命知らずの馬鹿野郎だ」
出発前、宿屋の主人にひどく止められた言葉が頭をよぎる。しかし、約束の期日は明日なのだ。ワラで編んだ雪沓(ゆきぐつ)が、深く積もった新雪をギュッ、ギュッと踏みしめる音だけが、果てしなく続く白い世界に響いていた。感覚がなくなるほど冷え切った指先をこすり合わせながら、喜助はただひたすらに、見えない頂上を目指して歩を進めていた。
異変は突然だった。今まで山の斜面を叩きつけていた猛烈な吹雪が、嘘のようにフッと止んだのだ。不気味なほどの静寂が辺りを包み込む。喜助が違和感に気づき、周囲を見回したその時だった。
鼓膜を圧迫するような「キーン」という耳鳴りと共に、数十メートル先の雪面が生き物のように蠢き始めた。雪が舞い上がり、瞬く間に一本の巨大なつむじ風の柱となる。それは風の法則を完全に無視し、斜面を滑るようにして、一直線に喜助へと向かってきた。逃げる暇などなかった。極寒の風の塊が、ハンマーのような衝撃で喜助の胸に激突した。
「うわあっ!」
喜助は宙を舞い、背中から雪溜まりに激しく叩きつけられた。目を開けていられないほどの猛烈な風の渦の中で、彼は信じられないものを見た。
風の中に、三つの黒い影が飛び交っていたのだ。イタチほどの大きさのその影は、ありえない速さで喜助の周囲を駆け巡る。最初の影が喜助の両足に激突し、彼を完全に地面に縫い付けた。その直後、二番目の影が足元を駆け抜ける。銀色に光る『何か』が、喜助の右ふくらはぎをスッと撫でた。
「ジツッ」
分厚い布が引き裂かれるような、湿った音が耳に届く。激痛を覚悟して喜助は顔を歪めたが、三番目の影が同じ場所をサッと通り過ぎた瞬間、生暖かい液体が足に塗られるような、奇妙な感覚だけが残った。そして次の瞬間、つむじ風は嘘のように消え去り、峠には再び元の静寂が戻っていた。
雪の中に倒れ込んだまま、喜助は荒い息を吐いていた。心臓が破裂しそうなほど鳴っている。しかし、待てど暮らせど、斬られたはずの足から痛みは全くやってこない。
震える手で、ふくらはぎを覆う破れた袴をめくり上げる。そこには、目を疑うような光景があった。真っ白な肌が、刃物でスパッと切り落とされたように深く裂け、中からドクドクと赤い血が溢れ出していた。純白の雪が、みるみるうちに毒々しい赤色に染まっていく。骨に届くほどの深い傷口。しかし、痛みは一切ない。かゆみすらないのだ。
「一匹目が転ばせ、二匹目が斬り、三匹目が薬を塗る……」
祖母が囲炉裏のそばで語っていた、あの恐ろしい昔話が蘇る。喜助は自分が今、伝説の妖怪「鎌鼬」に遭遇したのだと確信した。彼はゆっくりと立ち上がった。足は不思議なほど普通に動く。痛みがないまま血だけが流れ続ける自分の足を見つめながら、喜助は背筋が凍るような恐怖を覚えた。
もし、あの時。三匹目のイタチが気まぐれを起こして、薬を塗るのを忘れていたら……?喜助は痛みのない血の足跡を雪山に点々と残しながら、振り返ることもできず、逃げるように峠道を下りていった。