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冷たい雨が降りしきる深夜の路地裏。家路を急ぐ若い商人の背後に、奇妙な音が響いた。「カラン、コロン」。まるで一本歯の下駄で歩くような不規則な音。立ち止まると、音も止まる。恐る恐る振り返った瞬間、暗闇の中から巨大で生暖かい舌が伸び、男の顔をベロリと舐め上げた。
江戸の町が深い眠りにつく頃、呉服屋で働く若者の健次は、ひとり暗い夜道を歩いていた。商いの成功を祝う酒宴で、すっかり遅くなってしまったのだ。賑やかだった宴の熱気はすでに冷め、今はただ、容赦なく降り注ぐ冷たい雨が彼の肩を濡らしている。細い路地には人っ子一人おらず、軒先に吊るされた提灯が風で揺れ、不気味な影を落としていた。健次は手にした真新しい傘をしっかりと握りしめ、雨音だけが響く静寂の中を急ぎ足で進む。温かい布団に早く潜り込みたい。その一心で歩を進める彼の背後に、ひっそりと忍び寄る影があることなど、知る由もなかった。
古い神社の角を曲がったとき、空気がふっと冷たくなった。カビの生えた古い木のような匂いが鼻を突く。その直後だった。「カラン、バシャン。カラン、バシャン」。水溜りを踏みしめるような、奇妙な音が背後から聞こえてきた。それは明らかに人間の歩く音ではない。まるで、一本の下駄で器用に跳ねているようなリズムだ。健次は息を呑み、歩みを止めた。音もピタリと止まる。恐る恐る肩越しに振り返ったが、雨に霞む路地には何もいない。「気のせいだ…」と自分に言い聞かせ、再び歩き出す。しかし、彼が早足になると、その不規則な足音も「カランカラン!」と速度を上げてついてくるのだ。恐怖が背筋を駆け上がり、健次はいよいよ走り出した。
逃げ切れないと悟った健次は、覚悟を決めて泥水の中で立ち止まり、勢いよく振り返った。傘を刀のように構え、「誰だ!」と声を震わせて叫ぶ。ピカッと稲妻が夜空を裂いた瞬間、路地裏を照らし出したのは、人間ではなく、一本のボロボロの古い和傘だった。その傘は、人間の男のような逞しい一本足で立ち、下駄を履いている。健次が呆然とする中、傘の表面がパカッと開き、血走った巨大な一つ目がギョロリと彼を睨みつけた。そして、裂けた和紙の口から、分厚く真っ赤な舌がムチのように飛び出したのだ。「ベロッ!」。生暖かく、粘り気のある舌が、健次の顔面を勢いよく舐め回す。あまりの衝撃と恐怖に、健次は悲鳴を上げることもできず、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
気がつくと、雨はすっかり上がっていた。東の空が白み始め、路地に朝の光が差し込んでいる。泥まみれで目を覚ました健次の顔には、生臭い粘液の跡がべっとりと残っていた。慌てて周囲を見回すが、あの恐ろしい一つ目の化け物の姿はどこにもない。ただ、彼が倒れていたすぐそばの石畳の上に、骨の折れた古い傘がポツンと落ちていた。それは、一ヶ月前に健次が「もう使えない」と、この路地裏に捨てた傘と全く同じものだった。健次は震える足で立ち上がり、真新しい傘を握りしめて、逃げるように家へと走り去った。あの化け物は、ただ驚かしたかっただけなのか。それとも、捨てられた恨みを晴らしに来たのだろうか。古びた傘は、誰かに拾われるのを待つように、静かな路地に横たわったままだった。果たして、使い古された道具たちは、人間に対して何を思っているのだろうか。