
読み込み中...
読み込み中...
読み込み中...

その夜、海は不気味なほど凪いでいた。暗い浜辺で、男は足元に転がる無数の魚の死骸を見て息を呑んだ。どの魚も、見事に左の目玉だけがえぐり取られていたのだ。「ヒヒッ」という甲高い笑い声が、背後のガジュマルの樹上から響く。振り返ってはいけない。そうわかっていたのに、男はゆっくりと首を回してしまった。
はるか昔、琉球王国の時代。沖縄のある小さな漁村に、三郎という貧しい若者が住んでいた。三郎は年老いた母親を養うため、毎日ボロボロの小舟で海に出たが、潮の流れが悪く、一匹も魚が釣れない日が続いていた。ある蒸し暑い夏の夕暮れ、疲れ果てた三郎は、村外れにある巨大なガジュマルの木の根元に倒れ込むように座り込んだ。
ふと、頭上の枝葉がガサガサと揺れたかと思うと、木の実が三郎の額にポトリと落ちてきた。見上げると、そこには信じられないものがいた。人間の3歳児ほどの大きさで、夕焼けのように赤い肌をし、燃え盛る炎のような真っ赤な髪をした生き物が、太い枝の上であぐらをかいていたのだ。その大きな黄色い瞳が、興味深そうに三郎を見下ろしている。
「腹が減っているのか、人間」鈴を転がすような声で、その生き物は言った。三郎が呆然と頷くと、生き物は猿のように身軽に飛び降りてきた。「俺はキジムナーだ。海へ連れて行け。本当の漁というものを教えてやる」
その夜、三郎は奇跡を見た。キジムナーは暗い海へイルカのように飛び込むと、次々と巨大な魚を素手で捕まえ、舟に放り込んできたのだ。あっという間に舟は魚で山盛りになった。しかし、海から上がってきたキジムナーは、そのすべての魚の「左の目玉」だけを指で器用にくり抜き、ヒヒッと笑いながら美味しそうに食べてしまった。「目玉は俺のものだ。残りは全部お前にやるよ」
それから3年間、三郎とキジムナーは最高の相棒だった。毎晩一緒に海へ出て、目玉の無い魚を市場で売りさばいた三郎は、あっという間に村一番の金持ちになった。立派な瓦屋根の家を建て、大きく頑丈な新しい漁船を買い、母親には美しい着物を着せた。村人たちは三郎の成功を羨んだが、同時に「目玉のない魚」の不気味さに密かな噂を囁き合っていた。
財産が増えるにつれ、三郎の心には少しずつ傲慢さと欲が芽生え始めた。一方、キジムナーは何も変わらなかった。毎晩一緒に釣りをし、目玉を食べ、三郎の豪邸のすぐ横にあるあの古いガジュマルの木で眠った。
ある日、隣の島から来た裕福な商人が、三郎の土地を高値で買いたいと持ちかけてきた。「大きな蔵を建てたい。ただ、あの邪魔な古いガジュマルの木を切り倒すのが条件だ」。三郎は迷った。あそこはキジムナーの家だ。しかし、提示された金額は、一生遊んで暮らせるほどの莫大な黄金だった。三郎の心を欲が完全に覆い尽くした。「たかが古い木じゃないか。キジムナーなら、森の奥で別の木を見つければいい」
その日の夕暮れ。空が不気味な紫色に染まる中、三郎は重い鉄の斧を握りしめ、ガジュマルの木の前に立った。風がピタリと止み、鳥の鳴き声も消え、息苦しいほどの沈黙が辺りを包んだ。
三郎は斧を大きく振り上げ、太い幹に向かって力一杯振り下ろした。ドスッ、という鈍い音が響く。
次の瞬間、三郎は背筋が凍るのを感じた。深くえぐれた木の傷口から、まるで人間の血のような赤黒い樹液がドクドクと溢れ出したのだ。同時に、村中の空気を切り裂くような、鼓膜を破るほどの凄まじい絶叫が響き渡った。それは、3年間聞き慣れたあの無邪気な笑い声ではなかった。大自然の底知れぬ激怒の咆哮だった。
ガジュマルの葉が暴風のように揺れ、キジムナーが舞い降りた。しかし、その姿はもう可愛い子どもの精霊ではなかった。真っ赤な髪は本物の炎のように逆立ち、黄色い瞳は憎悪に満ちて爛々と輝いている。
「裏切り者め!」キジムナーの声が、三郎の頭の中に直接響いた。「俺は海をお前にやった!それなのに、お前は鉄の牙で俺の家を噛みちぎったな!」三郎は斧を放り出し、地面にひれ伏して命乞いをした。しかし、激怒した精霊の体はすでに赤い火の粉の渦となり、猛烈な勢いで海の方へと飛び去っていった。
翌朝、村人たちは悲惨な光景を目の当たりにした。三郎が建てた立派な豪邸は、一晩にして白い灰の山になっていた。港に停めてあった真新しい漁船は、沖のサンゴ礁で木端微塵に砕け散っていた。そして浜辺には、焼け焦げた高級な着物を着たまま、静かな海を虚ろな目で見つめて座り込む三郎の姿があった。
彼はすべてを失った。再び貧しい男に戻り、浜辺を彷徨うだけの抜け殻になった。夜になると、風に向かって泣きながら謝罪する三郎の声が村に響いたという。
キジムナーがその村に姿を現すことは二度となかった。傷つけられたガジュマルの木は、時間をかけてゆっくりと傷口を塞ぎ、破られた約束の証として今も静かに立ち尽くしている。沖縄の海が穏やかに凪いだ夜、ガジュマルの木の陰に赤い光が揺れることがあるという。それは自然の恵みの豊かさと、自然を裏切ることの恐ろしさを、今の私たちに問いかけているのかもしれない。あなたは、その木の下でどんな約束を交わすだろうか。