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もしあなたが深夜、誰もいない寂しい峠道を歩いていて、暗がりから若い女性の悲痛な泣き声が聞こえてきたら、どうしますか?「どうしましたか」と声をかける前に、どうか一度立ち止まって考えてください。その優しさが、あなたの精神を永遠に崩壊させる引き金になるかもしれないからです。これは、ある商人が見てしまった「絶対的な無」の物語です。
時は江戸時代、木枯らしの吹く晩秋のことでした。商人の徳兵衛は、江戸城のお堀端に沿って続く紀伊国坂を、小走りで急いでいました。すっかり日は落ちており、辺りは墨を流したような深い闇に包まれています。徳兵衛が手に持った小さな提灯の頼りない明かりだけが、足元の砂利道を辛うじて照らし出していました。
「早く家に帰って、熱い酒でも飲みたいものだ」
徳兵衛は襟元を合わせながら、足早に坂を登っていきます。彼は幽霊や妖怪の類を信じるような臆病な男ではありませんでしたが、風が松の枝を揺らす音や、堀の水が不気味に波打つ音が、妙に神経を逆撫でしました。早くこの寂しい坂を通り抜けたい。そう思って歩みを速めたその時です。風の音に混じって、かすかな声が聞こえてきました。耳を澄ますと、それは「シクシク」という、女性のすすり泣く声でした。
徳兵衛が足を止めて提灯を向けると、深い堀のほとりに、身をかがめて泣いている女の姿がありました。後ろ姿から見ても、身なりの良い町娘のようです。美しく結い上げられた髪が、夜の闇の中で微かに艶めいていました。女は袖で顔を覆い、肩を小刻みに震わせて泣きじゃくっています。
こんな夜更けに、しかもこんな寂しい場所で若い娘が一人で泣いているなんて、ただ事ではありません。「身投げでもするつもりではないか?」そう思った徳兵衛は、持ち前の人の良さから、放っておくことができませんでした。彼はゆっくりと女に近づき、背中越しに優しく声をかけました。
「お嬢さん、こんな夜更けにどうなさった。こんな所にいては危ないですよ。何かお困りのことがあるなら、私でよければ相談に乗りますが……」
女は返事をしません。ただ、しゃくりあげるように泣き続けています。徳兵衛はさらに一歩近づき、提灯を少し高く持ち上げました。「さあ、顔を上げて。一緒に明るい所へ行きましょう」
徳兵衛の声に反応したのか、女の泣き声がピタリと止まりました。そして、顔を覆っていた袖をゆっくりと下ろし、こちらへクルリと振り向いたのです。徳兵衛は、涙に濡れた可哀想な顔を想像していました。しかし、提灯の明かりが照らし出したその顔を見て、徳兵衛の全身の血が凍りつきました。
そこには、何もなかったのです。目があるはずの場所には何もなく、鼻の出っ張りもなく、声を発していたはずの口すらありません。ただ、つるんとした、まるでゆで卵のような肌色の肉の塊があるだけでした。表情がないということが、これほどまでに人間をパニックに陥れるのか。徳兵衛は言葉にならない悲鳴を上げ、提灯を放り出して一目散に逃げ出しました。
「うわああああああ!」
暗闇の中を、転がるように坂を下ります。後ろを振り返る勇気などありません。足がもつれて泥だらけになっても、ただひたすらに、人間のいる明るい場所を求めて走り続けました。あののっぺりとした顔が脳裏に焼き付いて離れません。
肺が破けそうになるほど走った先で、徳兵衛は遠くにポツンと灯る明かりを見つけました。夜鳴きそばの屋台です。屋台の親父が背を向けて、釜で湯を沸かしていました。徳兵衛は屋台に飛び込み、カウンターにすがりつきました。
「親父さん!助けてくれ!」
息を切らし、ガタガタと震える徳兵衛を見て、屋台の親父はゆっくりと振り返りました。編み笠を目深に被っており、顔はよく見えません。
「どうしたんだい、お客さん。そんなに慌てふためいて」
「バ、バケモノが出たんだ!紀伊国坂で、女が……顔に目も鼻も口もない、のっぺらぼうだったんだ!」
人間の声を聞いて、徳兵衛は心底ホッとしました。しかし、屋台の親父はしばらく無言で立ち尽くした後、スッと右手を上げ、自分の顔の前に持っていきました。そして、ぞっとするほど冷たい声で、こう言ったのです。
「その顔は……こんな顔でしたかい?」
親父が顔を撫で下ろした瞬間、そこにあったはずの目と鼻と口が、まるで粘土を拭き取るように消え去りました。屋台の明かりがフッと消え、徳兵衛が意識を失う直前に聞いたのは、自分の絶望の叫び声だけでした。さて、皆さんも夜道で人に話しかける時は、気をつけてくださいね。その人は本当に、顔を持っていますか?