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「深い山の中で、ネズミの鳴き声が聞こえても絶対に近づいてはいけないよ」。祖父はいつも、裏山を睨みつけるようにしてそう語っていた。「あんな山奥に普通のネズミはいない。もし『チーッ』と鳴く声がして、急に蝉の鳴き声が止んだら……振り返らずに逃げなさい」。私はそれを、子供を山に入らせないためのただの脅かしだと思っていた。あの息詰まるような真夏の日、実際にその音を聞いてしまうまでは。
それは8月の半ば、岐阜県の山間部にある祖父の家でのことだった。アスファルトからは蜃気楼が立ち上り、鼓膜を破らんばかりの蝉時雨が降り注いでいた。当時10歳だった私は、安物の虫取り網を片手に、大人から「入ってはいけない」と言われていた古い杉林の奥深くへと足を踏み入れていた。鬱蒼と茂る木々が直射日光を遮り、そこだけが異様に涼しく、湿った苔と腐葉土の強い匂いが漂っていた。巨大なミヤマクワガタを捕まえることしか頭になかった私は、自分が人間の領域から大きく外れた場所にいることに全く気づいていなかった。
朽ち果てた巨大な切り株のそばにしゃがみ込んだ時、ふと足元の地面に違和感を覚えた。湿った土と枯れ葉の上に、奇妙な跡が残っていたのだ。それはヘビが這ったようなクネクネとしたS字の跡でもなく、イノシシの足跡でもなかった。まるで、太くて重い丸太を「一直線」に引きずったような、不自然に真っ直ぐな窪みだった。不思議に思って指で触れると、土はまだ崩れかけており、何かが通り過ぎた直後であることを示していた。その瞬間だった。あんなにうるさかった蝉時雨が、まるで巨大なスイッチを切られたようにピタリと止んだ。耳鳴りがするほどの異常な静寂。その静けさの中、前方から聞こえてきたのだ。機械の部品が擦れるような、甲高い声が。「チーッ……チーッ……」
私は虫取り網を握りしめたまま、凍りついたように動けなくなった。3メートルほど先のシダの群生がカサリと揺れ、影の中から「それ」が這い出してきた。私の脳は、目の前の生物を処理することを拒絶した。頭部はマムシのように鋭い三角形をしているのに、そのすぐ後ろから、信じられないほど丸々と太った胴体が続いていたのだ。赤黒い斑点のある鱗に覆われたその姿は、まるでビール瓶をそのままヘビの皮で包んだようだった。異常に太く鈍重に見えるのに、そいつは音もなく滑るように移動した。不意にピタリと止まり、私の方を向いた。爬虫類特有の冷たい目ではない。大きな黒目がちの瞳が、確かな知性を持って私を観察していた。そして、そいつは人間のようにパチリと瞬きをしたのだ。恐怖で後ずさりした私の足が、乾いた枝を踏み折った。
『バキッ』という音に反応した瞬間、そいつの鈍重な雰囲気は完全に消え去った。「グーッ!」という人間のいびきのような威嚇音を発したかと思うと、太い体をバネのように縮め、ロケットのように空中に飛び上がったのだ。ヘビの噛みつきではない。ラグビーボールが飛んでくるような軌道で、私の頭上を2メートルも飛び越えていったのだ。私は腰を抜かし、泥の中にへたり込んだ。パニックになりながら振り返ると、着地したその生物は、自らの短い尻尾を口でくわえて見事な輪っかになり、山の斜面をタイヤのように猛スピードで転がり落ちていった。あっという間に茂みの奥へと消え去った。
私は肺が張り裂けそうになるまで走り続け、転がるように祖父の家へと逃げ帰った。涙目で「太いヘビが飛んで、タイヤみたいに転がって逃げた!」と訴える私を、祖父は笑わなかった。無言のまま台所へ行き、小皿に日本酒を注ぐと、それを勝手口の外にそっと置いた。「……食い殺されなくて運が良かったな」とだけ、静かに呟いた。今でも、誰も私の話など信じてくれない。みんな「大きなカエルを飲み込んで身動きが取れなくなったヘビを見ただけだろう」と笑う。しかし、獲物を飲み込んだヘビは瞬きなどしないし、空も飛ばない。私は今でも、日本酒の甘い香りを嗅ぐたびに、そして蝉の声がふと途切れるたびに考えてしまう。日本の山の奥深くで、あの太短い影は今も転がり続けているのではないかと。