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波一つない、鏡のように穏やかな夜の海。ベテランの漁師たちは、そんな不自然な静寂を何よりも恐れる。突如として海面が不気味に盛り上がり、星空を覆い隠すほどの巨大な黒い影が姿を現した。もしあなたが深夜の海で、音もなく波が立ち上がるのを見たなら、絶対に振り返ってはいけない。
江戸時代の半ば、蒸し暑い夏の終わりのことだった。伊豆の漁村で生まれ育ったベテラン漁師の健次は、その夜、たった一人で小さな木造の小舟に乗っていた。大漁の群れを追いかけているうちに、普段は決して近づかない沖合の深い海域まで来てしまっていたのだ。夜半に差し掛かる頃、船底を叩く波の音が、不自然なほど静かになっていくのに気がついた。
夕方から吹き続けていた海風が、まるで何者かに息の根を止められたかのようにピタリと止んだ。張っていた帆はだらりと垂れ下がり、小舟は完全に動きを止めてしまった。健次が恐る恐る海面を覗き込むと、そこには恐ろしい光景が広がっていた。海が、巨大な黒いガラスの鏡のように硬直し、冷たい星空を完璧に反射していたのだ。波の音一つ、海鳥の鳴き声一つしない。ただ、耳鳴りがするほどの重苦しい沈黙だけが辺りを支配していた。健次の背筋を、嫌な汗が流れ落ちた。祖父が幼い頃によく言っていた言葉が、頭の中に響き渡った。「海が息を止めたら、それは大声で叫ぶ準備をしている証拠だ」と。
たまらなくなった健次は、この不気味な静寂を打ち破るように必死で櫓(ろ)を漕ぎ始めた。ギィ、ギィという木が軋む音だけが、虚しく闇夜に響く。しかし、舟はまるで泥沼にハマったかのように異常に重く、全く前に進まない。その時だった。鼻が曲がるほどの強烈な悪臭が、突如として漂ってきたのだ。それは、腐った魚の腹と、何百年も海底に沈殿したヘドロを混ぜ合わせたような、濃密な死の匂いだった。
舟から三十間(約50メートル)ほど離れた暗闇の中で、海面に映る星々の光がぐにゃりと歪んだ。波が立ったのではない。海面そのものが、重力に逆らうようにドーム状に大きく膨れ上がり始めたのだ。健次は櫓を握ったまま、全身の血の気が引くのを感じた。真夏だというのに吐く息は白く染まり、周囲の空気が氷のように冷たくなっていく。そして、ズゴゴゴゴ…という地鳴りのような重低音と共に、その真っ黒な水の塊は、海面を突き破って天高く立ち上がった。
極寒の海から姿を現したのは、月さえも覆い隠すほどの巨大なシルエットだった。高さは優に十丈(約30メートル)を超えている。それは光を一切反射しない、墨汁を固めたような漆黒の山だった。首はなく、僧侶のようにツルリと丸めた巨大な頭部だけが、夜空に不気味に浮かび上がっている。尻餅をついて震える健次を見下ろすように、そののっぺらぼうの顔に、爛々と輝く黄色い二つの巨大な目がカッと見開かれた。
あれほど穏やかだった海は、怪物が立ち上がった衝撃で大荒れとなり、健次の小舟は今にも転覆しそうなほど激しく揺さぶられた。すると、怪物の体の一部がゆっくりと動き、巨大な黒い腕が船に向かってヌッと差し出された。手のひらを上に向けたその怪物は、海底から響いてくるような、頭蓋骨を揺らす低い声で呟いた。
「……樽をくれぇ……」
健次は絶望した。もしあの巨人に樽を渡せば、その巨大な手で海水をすくい上げられ、あっという間に小舟を水浸しにされて海の底へ引きずり込まれてしまう。それは、漁師たちの間で語り継がれる『海坊主』の最も残酷な殺し方だった。
恐怖で心臓が破裂しそうになりながらも、健次の頭の片隅で、村の長老から教わった生き残るための知恵が閃いた。彼は激しく揺れる船上を這いずり回り、魚を洗うための小さな木桶を見つけ出した。そして、網を引っ掛けるための鋭い鉄の鉤(かぎ)を掴むと、半狂乱になりながら木桶の底を力一杯打ち抜いた。バキッという音と共に、木桶の底に大きな穴が開いた。
「持っていけええッ!」
健次は底の抜けた木桶を、突き出された黒い手に向かって力任せに放り投げた。海坊主はそれを受け取ると、ゆっくりと海面に腕を沈め、たっぷりと海水をすくい上げて小舟の真上に持ち上げた。万事休すかと思われたその時、すくい上げられた大量の海水は、木桶の底の穴からザアアアッと滝のようにこぼれ落ち、海へと戻っていった。
巨大な黄色い目が、不思議そうに瞬きをした。海坊主はもう一度海水をすくった。しかし、やはり水は底から抜けていく。怪物がその終わりのない無意味な作業に完全に気を取られている隙に、健次は狂ったように櫓を握りしめ、無我夢中で小舟を漕ぎ出した。振り返ることは一度もしなかった。
奇跡的に浜辺へ生還した健次は、それ以来、二度と深い沖合へ出ることはなかったという。現在でも、波一つない不自然なほど静かな夜の海を見ると、人々はふと考える。あの暗い水平線の向こうで、底の抜けた樽で延々と海水をすくい続けている巨大な黒い影が、今もこちらを見つめているのではないか、と。