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氷のように冷たい風が熊野の深い樹海を吹き抜け、迷い込んだ旅人の松明を容赦なく吹き消した。暗闇に光る無数の獣の目に囲まれ死を覚悟した瞬間、頭上から眩い黄金の光が降り注ぐ。見上げると、そこにはあり得ない『三本目の足』を持つ巨大な漆黒の鴉が、神々しい姿で羽ばたいていた。
神々と人間の境界がまだ曖昧だった、遠い昔の秋の深まり。港町で手広く商いをしている藤吉(とうきち)は、致命的な過ちを犯していた。山の向こうの村で高く売れる絹織物を早く届けるため、誰も寄り付かない熊野の険しい山道を近道として選んでしまったのだ。地元の猟師たちは「あの森には足を踏み入れるな。太陽の光すら届かず、道は生きて動く」と強く忠告していたが、藤吉は自らの経験と体力を過信していた。
朝霧が立ち込める中、重い荷物を背負って山に入った。最初の数時間は、落ち葉を踏む音と遠くの滝の音が心地よかった。しかし、日が傾き始めた頃、周囲の空気が一変した。数百年を生きる巨大な杉の木々が、まるで意思を持っているかのように迫り出し、苔むした道標はシダ植物の波に飲み込まれて消えた。方向感覚が完全に狂い、自分が同じ場所をぐるぐると歩いていることに気づいた時には、すでに太陽は山々の向こうへ沈み、熊野の真の恐ろしさが目を覚まそうとしていた。
夜は、幕が下りるというよりも、重く冷たい泥水のように藤吉を飲み込んだ。慌てて火打ち石で松明に火を点けたが、その頼りない明かりは足元の木の根を照らすのが精一杯だった。森の静寂は破られ、四方八方から太い枝が折れる音や、腹の底に響くような獣の低い唸り声が聞こえ始めた。暗闇の奥で、いくつもの黄色い瞳がギラギラと光り、じりじりと距離を詰めてくる。
恐怖が理性を完全に奪い去った。藤吉は背負っていた高価な絹織物を泥の中に投げ捨て、ただひたすらに闇雲に走り出した。茨の棘が着物を引き裂き、顔に容赦なく鞭打つ。しかし、どれだけ走っても景色は変わらず、飛びかかってくる影から逃れることはできない。その時、残酷な突風が吹き荒れ、藤吉の手から松明を吹き飛ばした。ジュッという音とともに火が消え、完全な暗闇が訪れた。疲れ果て、膝から崩れ落ちた藤吉は、迫り来る死の足音にただ目を閉じて震えることしかできなかった。
獣の牙が首筋に突き立てられるのを覚悟したその瞬間、森全体を揺るがすような異音が響き渡った。それはカラスの鳴き声などではなく、巨大な梵鐘(ぼんしょう)を力いっぱい打ち鳴らしたような、重く荘厳な響きだった。その音を聞いた途端、周囲を取り囲んでいた獣たちがパニックを起こし、悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
藤吉が恐る恐る目を開けると、頭上の分厚い葉の天井が割れ、真昼の太陽のような強烈な光が降り注いできた。眩しさに目を細めると、巨大な漆黒の鳥がゆっくりと舞い降りてくるのが見えた。翼を広げれば小川を覆い隠すほどの規格外の大きさ。その羽は深い闇の色でありながら、内側から燃え盛るような金色の光を放っている。そして、藤吉の視線は、その鳥の腹部から伸びる『三本の太い足』に釘付けになった。鋭い鱗に覆われた三つの鉤爪が、神の威厳をもって倒木を掴む。それこそが、太陽神の使い「八咫烏」だった。
巨大な霊鳥は藤吉を襲うことはなかった。燃えるような金色の瞳で怯える男を見下ろすと、バサリと一度だけ力強く羽ばたき、地を這うように低空を飛び始めた。八咫烏の放つ光が、藤吉が全く気づかなかった獣道のような細い抜け道をはっきりと照らし出している。不思議なことに、鳥の光を浴びた瞬間から、凍えるような寒さも、歩けないほどの疲労感も嘘のように消え去っていた。藤吉は無意識のうちに立ち上がり、その三本足の影に惹きつけられるように歩き出した。
どれくらい歩いただろうか。鳥が飛ぶ道は、不思議と茨が避け、足場の悪い岩も平坦に感じられた。やがて頭上の木々がまばらになり、空が深い紫色から美しい薄紅へと変わっていく。森を抜け、見晴らしの良い峠道に出た瞬間、山の端から眩しい朝日が顔を出した。藤吉は涙を流しながらその場に崩れ落ち、地面に何度も額を擦り付けて感謝を捧げた。顔を上げた時、すでに八咫烏の姿はなく、朝の光に溶けて消えていた。ただ、岩肌には焦げたような三本足の爪跡だけが、確かに残されていた。なぜ、あの太陽の使いは愚かな商人の命を救ったのか? その答えは、古代から続く神々と迷える者との神秘的な結びつきの中にある。