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夜の山道、ふと耳を澄ますと川の方から「ショキショキ」という音が聞こえてきませんか?それはただの川のせせらぎではありません。暗闇の中で誰かが小豆を洗っているのです。もしその正体を確かめようと足を踏み出せば、あなたは冷たい水の底へ引きずり込まれるかもしれません。
江戸時代の晩秋。冷たい風が吹きすさぶ信州の山奥で、行商人の男、藤吉は急ぎ足で村への帰路についていた。予定よりも商いが長引き、日が落ちてしまったのだ。周囲には鬱蒼と茂る木々が立ち並び、空を覆い隠している。藤吉の手にある小さな提灯の心細い灯りだけが、唯一の頼りだった。道は、深く険しい渓谷を流れる川に沿って続いている。ゴオオオという低くうねるような川の音が、絶え間なく暗闇に響き渡っていた。厚手の綿入れを着ていても、川面から立ち上る湿った冷気は容赦なく体温を奪っていく。村の年寄りたちは「日が暮れたら、決して川沿いの道は歩くな」と口酸っぱく言っていた。しかし、暖かい囲炉裏の火を思い浮かべながら、藤吉は恐怖を振り払うように歩みを進めた。そこにあるのは、厳しい自然と向き合う、ごくありふれた孤独な夜のはずだった。
村まであと一里というところまで来た時、ふいに風が止んだ。森の木々が揺れる音も、虫の音も消え、不自然なほどの静寂が辺りを包み込んだ。いや、完全に無音になったわけではない。激しい川の音に混じって、今まで聞こえなかった奇妙な音が耳に届き始めたのだ。「ショキ……ショキ……ショキ……」。それは、乾いた小豆を竹のザルの中で激しくこすり合わせるような、リズミカルで異質な音だった。藤吉は思わず足を止めた。すると音もピタリと止む。気のせいかと思い再び歩き出すと、また「ショキ……ショキ」と鳴り出す。そして次の瞬間、凍りつくような恐ろしい声が、川の底から響き渡った。「小豆とごうか……人にとって食おうか……ショキショキ……」。藤吉の背筋に、氷のような冷たい汗が流れた。幼い頃に聞かされた、水辺に潜む恐ろしい妖怪「小豆洗い」の伝承が脳裏をよぎった。
「絶対に振り返ってはいけない。立ち止まらずに歩き続けろ」。藤吉は心の中で呪文のように唱え、前だけを見て歩こうとした。しかし、音は次第に大きく、激しくなっていく。「ショキショキ!ショキショキ!」。まるで、すぐ足元の崖の下で鳴っているかのようだ。恐怖と同時に、藤吉の心に抗いがたい奇妙な好奇心が湧き上がってきた。「本当に妖怪がいるのか?一体どんな姿をしているんだ?」。その誘惑は、理性では抑えきれないほど強烈だった。藤吉は震える手で提灯を掲げ、ゆっくりと川の淵へと近づいた。崖の上から、恐る恐る真っ暗な水面を見下ろす。その瞬間、霧が僅かに晴れ、月明かりの下に、異様に頭の大きな老人がニタニタと笑いながらこちらを見上げている影が見えた気がした。次の瞬間、藤吉の足元の土が、まるで油を塗ったようにヌルリと滑った。「あっ」と声を上げる間もなかった。見えない巨大な手に足首を強く引かれたように、藤吉の体は宙を舞い、氷のように冷たい激流の中へと真っ逆さまに突き落とされた。
凄まじい水の冷たさに、心臓が止まりそうになった。藤吉は必死に水をかき分け、もがき苦しんだ。運良く下流の浅瀬の砂州に打ち上げられ、なんとか一命を取り留めた。泥だらけになり、全身をガタガタと震わせながら見上げた夜空には、冷たい月が輝いていた。ふと気がつくと、周囲は再び不気味なほどの静寂に包まれていた。あの恐ろしい歌声も、小豆を洗う音も、完全に消え去っていた。藤吉は命からがら村へ帰り着いたが、その夜の恐怖を忘れることは一生できなかった。あの大頭の老人は本当に存在したのだろうか。それとも、疲労と恐怖が生み出した幻覚だったのだろうか。だとしたら、崖の上から彼を水底へと引きずり込んだあの強烈な力は、一体何だったのか。その答えは、今も日本の暗い水辺の底に沈んだまま、次に覗き込んでくれる者を静かに待ち続けているのである。