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波の音が消えた夜、肥後の海は不気味なエメラルド色に発光していた。まるで海底で何かが呼吸しているように明滅している。光の正体を確かめるため、役人は暗い浜辺に立っていた。彼は海賊の仕業だと疑っていた。しかし波間から姿を現したのは、人間の想像をはるかに超えた異形の存在だった。
時は1846年、弘化3年の春の終わり。肥後国(現在の熊本県)の海沿いの村は、重苦しい空気に包まれていた。数日前から、夜になると沖合の海が不気味に光るというのだ。村人たちは「海神様の怒りだ」「異国の幽霊船だ」と怯え、夜になると雨戸を固く閉ざして家から一歩も出なくなった。
藩の末端の役人である柴田は、上司の命令でしぶしぶ夜の浜辺へ見回りに来ていた。腰の刀に手を当てながら、暗い海を睨みつける。生温かい潮風が吹き抜け、足元の砂利が波に洗われてザラザラと音を立てる。その時だった。
沖合数十メートルの海面下で、ぽわんと緑色の光が灯った。光は蛍のように儚いものではなく、まるで巨大な提灯が水の中にあるように強く、そして規則的に明滅していた。光は波をかき分けながら、ゆっくりと、だが確実に浜辺に向かって近づいてくる。
「誰だ!何者だ!」
柴田は声を張り上げたが、返事はない。光は浅瀬まで来ると、ザバァッという水音とともに海面を割って姿を現した。暗闇の中、自らが放つ緑色の光に照らし出されたその姿を見て、柴田は思わず息を呑み、後ずさりした。
それは人間でも、見知った魚でもなかった。顔の真ん中には鳥のような鋭いひし形の「くちばし」が突き出ている。目は丸く見開かれ、一切の感情を読み取ることができない。頭からは海藻のように濡れて束になった長い髪が、地面に擦れるほど垂れ下がっていた。
陸に上がったその生き物は、全身が魚のような硬いウロコでびっしりと覆われていた。そして何より異様だったのは、その足元である。人間の足ではなく、ヒレのような形をした3本の足で、砂浜の上にしっかりと立っていたのだ。強烈な磯の香りが周囲を包み込んだ。
柴田は恐怖のあまり刀を抜くことすら忘れ、その場にへたり込んだ。異形の化け物は、柴田を見下ろしたままピタリと動きを止めた。そして、くちばしをゆっくりと開いた。
声は耳から聞こえたのではなかった。まるで頭蓋骨の中に直接冷たい水が流れ込んでくるように、脳内に直接響き渡った。
『私は、海中に住むアマビエという者だ』
抑揚のない、しかしどこか威厳のある不思議な声だった。化け物はさらに続ける。
『今年から6年の間は、諸国で豊作が続くであろう。人々が飢えることはない』
安堵の言葉に聞こえたが、アマビエの丸い目は決して優しくなかった。続けて発せられた言葉は、重く冷たい宣告だった。
『しかし、同時に恐ろしい病も流行る。多くの者が倒れるだろう。もし疫病が広まり始めたら、決して恐れるな』
アマビエは3本の足で一歩前へ出ると、柴田の目をまっすぐに見つめた。
『私の姿を紙に描き写し、病に苦しむ者たちに早急に見せなさい。さすれば、難を逃れるであろう』
言い終わると同時に、アマビエはくるりと背を向けた。ザザッ、ザザッと砂を蹴立てて海へ戻り、再び暗い波間に沈んでいく。エメラルドの光はみるみるうちに小さくなり、やがて漆黒の海に完全に溶け込んで消えた。
浜辺には、茫然自失の柴田だけが取り残された。我に返った彼は、無我夢中で役所へ走り、震える手で筆を執った。くちばし、長い髪、ウロコ、そして3本の足。見たままの奇妙な姿を紙に描きなぐった。翌日、その絵はすぐに瓦版として刷られ、「アマビエの予言」として瞬く間に人々の間に広まっていった。
それから百数十年。江戸の瓦版は色褪せ、歴史の隅に忘れ去られた。しかし、もし今夜、暗い海が再び緑色に光り始めたら。私たちはあの不器用な線で描かれた妖怪の姿を、もう一度必死に描き、祈りを込めて誰かに見せるのだろうか。